大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第一小法廷 平成2年(行ツ)12号 判決

上告人 森友義

被上告人 杉並税務署長

代理人 下田隆夫

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人林浩二、同福島瑞穂の上告理由第一及び第二について

所得税法(本件昭和五七年分及び同五八年分の各更正に関しては同五九年法律第五号による改正前のもの、同五九年分の更正に関しては同六一年法律第一〇九号による改正前のものをいう。以下同じ。)二条一項三四号に規定する親族は、民法上の親族をいうものと解すべきであり、したがって、婚姻の届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にある者との間の未認知の子又はその者の連れ子は、同法八四条に規定する扶養控除の対象となる親族には該当しないというべきである。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。

右未認知の子等を扶養控除の対象から除外している所得税法八四条、二条一項三四号の規定が憲法一四条一項に違反するものでないことは、当裁判所昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日大法廷判決(民集三九巻二号二四七頁)の趣旨に徴して明らかである。また、、その余の違憲の主張は、ひっきょう、所得税法における扶養控除制度に関する立法政策上の適不適を争うものにすぎず、違憲の問題を生ずるものでないことは、当裁判所昭和二八年(オ)第六一六号同三〇年三月二三日大法廷判決(民集九巻三号三三六頁)、同昭和五一年(行ツ)第三〇号同五七年七月七日大法廷判決(民集三六巻七号一二三五頁)の趣旨に徴して明らかである。

論旨は、いずれも採用することができない。

同第三について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 大内恒夫 四ツ谷巖 大堀誠一 橋元四郎平 味村治)

上告理由

原判決は憲法解釈に誤りがあり、かつ、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令の違背があるので破棄を免れない。

上告人の上告理由の骨子は次のとおりである。

一 現行所得税法上、扶養控除は事実上扶養している事実上の子に関しても認められるのに、原判決は解釈上これが認められないとするが、この判断には法令の違背があり、これが判決に影響を及ぼすこと明らかである。

二 かりに解釈上扶養控除が認められないとすればその限りで所得税法八四条は違憲かつ国際人権規約に違反し、無効であり、これを合憲とした原判決には違法解釈に誤りがある。

三 また、かりに一、二の主張が認められないとしても、本件過少申告加算税の付加決定処分は違法であり、これを適法とした原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違背がある。

(本件の争点)

本件は所得税法八四条の扶養控除対象者である「扶養親族」にあたる同法二条一項三四号の「親族(ただし配偶者を除く)」に、上告人が現実に養育している藤本心、藤本要、藤本匠の三人が該当するか否かが争点になっている。

上告人は、右三人の事実上の子が扶養控除の対象者に該当するし、かりに該当しないとすれば同法八四条は憲法に違反すると主張し、右三人を扶養親族と認めなかった本件各処分は違法としてその取消を求めている。

本訴訟は、事実上の親子関係という近時法律上の重要な論点となっている問題を含み、かつ、税法解釈上の新しい判断が必要な事件であり、裁判所の慎重な対応が求められる。ことに、国際的には、子どもの権利条約が国連で採択され、子どもの権利との関係で、事実上の子であるというだけで扶養控除が受けられないということが差別に該当するのは明らかであり、この点からの裁判所の積極的な違憲立法審査権の行使が期待される。

(上告人の主張の骨子(目次))

第一総論

一 扶養控除の意義―憲法・条約とのかかわりと税法上の位置付け―

二 事実上の関係と現行法体系

第二憲法・人権規約論

一 憲法一三条関係

二 憲法一四条、国際人権規約B規約二六条関係

三 憲法二四条関係

四 憲法二五条関係

五 国際人権規約A規約一〇条1、3、同B規約二三条1関係

第三過少申告加算税についての判決に影響を及ぼすべき法令違反

(上告人の主張)

第一総論

原判決は、第一審判決を肯定して、「ある法律において「親族」と規定している場合に、該当法律にその定義規定を置いていない時は特段の理由のない限り身分法の基本法であり、親族について基本概念としての明確な定義規定を置いている民法上の親族を指すものと解すべきである」と述べる。

しかし、法律には各個別にその立法趣旨、法律全体の内容と位置付けからする解釈があるのであり、ある法律において「親族」という言葉が規定されている場合にはその法律の解釈として「親族」をどう解するかという議論が先行する。これは個別的判断であり、法律がその条文を規定した趣旨を重視しなければならない。これは租税法においては、税法の規定の理解(解釈・適用)は、税法の規定内容の表見的(形式的)概念にとらわれることなく、税法理論上の実質的概念を通してなされるべきという実質主義(実質課税の原則)としてあらわれている。

つぎに、法の全体的統一性の問題がある。個々の法律における「親族」の定義付けが全く統一性を欠くということがあってはならないことは当然である。ただし、この場合でも、各法律の趣旨からその解釈の異なりに合理的な説明ができるというならば、それは統一性を害することにはならない。その趣旨に最も近いものとして選ばれたものがその言葉であったということであり、また、ある法律の一つの言葉の定義付けも変遷する。ことに、法が人権にかかわる場合には、憲法の趣旨を重視して考えることが最も必要である。

また、かりに私法秩序を尊重し、私法上の解釈に即して税法も解釈すべきとする形式主義重視の立場をとったとしても近時の私法における親族概念の拡張ないし事実関係の重視、実質の重視という解釈上のすう勢を考えれば、親族についてはこれを実質に即して解釈すべきこととなる。

さらに、租税法律主義(憲法八四条)の要請のもとに制定された租税法は課税の領域において国民の財産権を保障することを使命とし、租税法の第一目的ができるかぎり多額の金銭を調達することであるとする「国庫主義的理解」は現行憲法のもとではとうてい容認することができないのであり、憲法の保障した国民の諸権利を全うするという基本的理解のもとに租税法は解釈されなければならない。租税要件事実の認定も、論理法則、客観的経験法則に従って行われることはもとより、それが国民の基本的人権とどのように関わるかを考えて行わなければならない。

ことに本件で問題となっている扶養控除は、以下に述べるとおり、税法の中でも国民の基本的人権と深くかかわっている部分であり、憲法上保障された幸福追求権、平等権、生存権等の基本権の内容をふまえて解釈しなければならないし、憲法判断を為さなければならない。

第一審判決は、所得税法の解釈として、事実上の子が親族に含まれるか否かの判断を示しており、原判決もこれを認めるが、これはとくに判決のいう「特段の事由」の判断をしているということではなく、通常の解釈を所得税法に則して行っていると考えられる。しかし、その判断対象も内容も憲法の権利保障の観点が全く欠如したきわめて不十分なものであり、憲法、法律の解釈を誤っているものといわなければならない。

一 扶養控除の意義

原判決は所得税法八四条等の解釈にあたって、扶養控除の意義、ことに、その国民の基本権とのかかわりについて全くふれていない。しかし、本事案においての解釈において、これを論ずることなしに解釈論を述べることはできない。

(一) 憲法と扶養控除制度

扶養控除は、基礎控除・配偶者控除とともに、人的控除の一つである。

人的控除制度の趣旨は、最低生活費・基準生計費ないし標準生計費に対応する部分を課税対象外におき、担税力のない者には課税最低限を設定することによって、納税義務を免除しようとすることにある。所得のうち、本人及びその家族の最低限度の生活を維持するのに必要な部分は担税力を持たない、という考慮に基づくものであり、また、所得税法における他の所得控除・累進税率等の諸制度と相俟って、担税力に即した租税の公平な負担の原則に資するものであるとされる。

そもそも租税法律主義の原則は、納税の義務がそれぞれの納税義務者にとって公平であり、平等なものでなければならないという要求に基づいている。この観点は憲法一四条の平等権保障の趣旨からも導き出される。つまり、税の負担は納税義務者の税を負担し得る個人的な経済的な能力(担税能力・担税力)に相応したものでなければならないということである。これは応能負担の原則といわれており、租税法上の基本原則となっている。そして、租税負担の公平を理念として租税を賦課する以上は実質課税の原則によることが最も租税公平の原則に合致する(山口地裁一九五六・四・一二行集七巻四―九二〇)。

扶養控除について言えば、納税者に扶養すべき家族がいる場合、その者らの最低生活費・基準生計費ないし標準生計費に対応する部分については、扶養に必要な費用として担税力を認めず、当該納税者に対する課税の対象外におこうとするものである。

そして、これは、ことに憲法二五条の生存権を具体化した規定である。すなわち、憲法二五条は、国民の生存保障のため、国民に国の生存権侵害行為を排除する権利を認めるとともに、国民の健康で文化的な生活を維持するために必要な具体的施策を国に命じている規定と解されるが、扶養控除制度は、憲法二五条の求めている具体的施策の一つとして設けられ、この国民の生存権保障のために、その者自身および扶養対象者の健康で文化的な生活を維持するために必要な費用に担税力を認めないこととしている。

したがって、控除すべき生計の状態にあるか、つまり、控除対象とするような扶養親族関係にあるかが、生存権保障の観点から考えられなくてはならず、扶養控除はその生計の実態に則して認めることがまず求められ、形式的に親族であることが判断対象となるものではない。所得税法二条一項三四号も「・・・その居住者と生計を一にするもののうち・・・」と定め、「生計を一にする」という判断は、形式的に為すことができるものではなく、実質判断を求めていることからもこのことは明らかである。

したがって、所得税法八四条、二条一項三四号の親族には、生存権保障の観点から考えるならば事実上の子も含まれていると解されることになる。

上告人の場合、藤本要、匠および心の三人の子が、上告人の事実上の子であり、扶養の事実のあることは原判決も認めている。つまり、上告人の生活実態からみるならば、右三人の子について扶養控除の対象親族とみなければ上告人の生存権保障の趣旨が貫かれないこととなる。生存権を保障するという観点においては、いかなる法律についても実質解釈と判断が要請される。

また、憲法一四条の平等権との観点から考えても異なった扱いをすることの合理性判断について実質的に平等か否かを考えねばならない。原判決は一四条の関係においてとうてい実質的合理性判断をしているとはいえないのである。

(二) 子どもの権利との関係

近時子どもの権利は理論的にも深化し、具体的にも拡張されてきている。

さらに後述するとおり国連においては、子どもの人権条約が採択され、あらゆる法制度は子どもの権利保障という観点から見直される必要が出てきている状況である。

扶養法制においても、扶養費請求権を有する者が子であることは明確と思われるが、現行法では子の養育費請求の根拠規定が明らかとなっていないので、養育費の給付は親の義務であり、その受諾は子の権利である旨を明示する具体的法規定を整備することが必要といわれている(厚生省離婚制度等研究会報告書・一九八六)など、子どもの権利の観点からの把えなおしがすすんでいる。

児童憲章は、憲法の精神にしたがい、「すべての児童は、心身ともに、健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される」(一条)と定め、国連の児童権利宣言は、その一条で「すべての児童はいかなる例外もなく、自己又はその家族のいずれについても」あらゆる人種、意見、出身、地位などのため差別を受けることなく、権利を与えられなければならないとされている。

これを受けて子どもの権利の基本となる児童福祉法は、「すべて児童はひとしくその生活を保障され愛護されなければならない」(一条二項)として、国および地方公共団体に対しては「児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任」を負わせている(二条)。そして、同法は、児童に関する法体系の解釈基準を三条に示し、同法一、二条に規定する内容は「児童の福祉を保障するための原理であり、この原理がすべて児童に関する法令の施行にあたって常に尊重されなければならない」とする。

これらの規定は、子どもについての憲法一三条の幸福追求権と二五条の生存権の具体化である。子どもにとっての幸福追求権、生存権とは子どもの現在の生活(健康)の維持とともに、子どもが現在、将来にわたり、人間的に成長、発達する権利を内容とする。後段については憲法二六条の教育権も含まれることとなる。

ところで、これらの権利をまっとうさせるにはもちろん財政的な裏付けが必要となる。そして、子どもの権利について、適切な人がこれを代行してその実現を保障するという側面があり、子どもの生存権の保障等は、養育者の生存権の保障なくしてはありえない。子に関する扶養控除の制度は、まさに、子どもの権利保障のためのものであり、その実現を養育者の扶養に必要な部分について担税力を認めず、課税の対象外に置くことによって為すという制度なのである。

したがって、その制度規定解釈にあたって、子どもの権利を保障する観点を第一に考えなければならず子どもの権利を侵害することがあってはならない。子に関する扶養控除制度は、児童に関する法律とみられ、前記した児童福祉法三条により、子どもの権利保障の観点から解釈されることが求められている。

(三) 幸福追求権(憲法一三条)との関係

租税の賦課が国民の権利を制約するものであることは明らかであろう。しかし、その権利制約の内容を検証しなければならない。そして、実質的な見地から見れば財産的基本権の制約のほか、課税された分だけ幸福追求を支える財産的基盤が犯されるという意味で国民の幸福追求権への制約であることがわかる。

また、租税は国民の幸福追求の権利と個々人の尊厳を守るために使用されなくてはならず、一面からいえば租税の徴収において、右権利を侵害することがあってはならないということがいえる。

扶養控除の制度においては、扶養をしている事実に着目し、個人の尊厳を守り、国民の幸福追求権を支えるため扶養に必要な部分からは課税しないとされている。

右の幸福追求権は、納税義務者(扶養義務者)本人と被扶養者双方について考えなければならない。本件ではとくに子どもの権利としての幸福追求権が考慮されることは前記したとおりである。この扶養義務者は扶養に必要な範囲の所得について課税されない権利を持つというべきであり、扶養控除制度により具体化されていると考えられる。

本件上告人と藤本心、要、匠との間の関係は前記したとおり事実上の親子関係にあり、現実に上告人は右三人の子を扶養している。この関係において上告人の所得のうち子らの扶養のために必要な範囲について課税対象とするならば、右権利が侵害されることになる。そして、所得税法八四条、同法二条一項三四号は「親族」として事実上の親子関係を排除していないから、これは非扶養者が事実上の子の場合にも認められるべき、扶養に必要な範囲の所得について課税されない権利を保障したものと解されることとなる。

さらにまた、扶養控除の適用においては、個人の尊重という憲法原理を侵すようなことがあってはならないから法解釈もこれによって為されなければならない。個々人の生き方の選択により税負担の不公平があれば、それは国家による一つの価値の押しつけであり、全体主義的な法の適用となって、これが個人の尊重を規定した憲法一三条前段に反することはもちろんである。

この観点から考えられることは、やはり租税徴収の実質主義である。

扶養というのは現実的事実的なものであり、扶養義務も実質と事実に着目して認められることになる。さらに物質的、経済的な扶養義務に伴った監護等の責任も認められる。これらの現実性というのは日々の生活のなかにあらわれているものであり、課税控除という一時的処置はこの現実の日々の生活の積み重ねを考慮する。

扶養控除は、扶養の実態にある親族か否か、そして生計を一にするか否かという実質判断を伴うもので、その認定は形式的に為されるというものではない。またその認定がある一定日を特定して為されることになっても、その時点における実質判断ということであり、形式的判断のために一定日が決まっているわけではない。

事実上の子は、当然実態的には扶養の必要な親族と考えられ扶養控除の対象者になることはもちろんであり、所得税法八四条もこのことを前提に規定しているのである。

(四) 近時の税法の考え方との合致

1 応能負担の原則と最低生活費非課税の原則

税法上、憲法一三条、一四条、二五条等の人権規定を具体化しているのが応能負担の原則であり、この原則の中に最低生活費非課税の原則が含まれている。最低生活費非課税の原則は、国家が国民の生存的自由を侵害しないようにするという意味で憲法二五条の自由権的側面の機能に関するものとするのが近時の考え方となっている(〈証拠略〉・北野弘久鑑定書)。

扶養控除の制度ももちろんこの応能負担の原則とそれに基づいている最低生活費非課税の原則から認められており、税法の基本的な人権保障原則の具体化である。そして、憲法の意図する応能負担原則は、課税対象を形式的な担税力でとらえるのみではなく実質的な質的担税力も考慮することを求める。これは、税の公平な負担ということから当然のことである。

扶養控除制度の場合にも、その解釈運用にあたって応能負担の原則の考え方が貫かれるべきことになり、その生活実態から「扶養親族」を考えていくことが必要になる。本件上告人の生活実態については、藤本早苗と上告人が婚姻届を提出していなくても藤本要、藤本匠、藤本心の三名と上告人との間に扶養親族関係があり、所得税法上も上告人の扶養親族として処遇されるべきこととなる。

2 租税の人税化

憲法の求める応能負担原則によれば、租税は納税者の人的事情をできるかぎり考慮するという、人税化の方向をとることが望ましいということになる。人税化はまさに憲法の企図する人権保障を税法において実現するというものである。

人権の拡張は世界のすう勢であり、我が国も国際人権規約批准後あらゆる法分野において人権の観的からの解釈や立法の見直しが為されつつある。

ところで、人税化をすると税法が複雑になるといわれることがある。しかし、これは応能負担原則=人権保障を貫くためやむを得ない。むしろ、複雑化することを避けるがために人税化にためらいを持つならば、国の都合で人権が侵害されることになる。人税化のための複雑化があるとすれば、それに対応した措置(人員の確保等)をとることが国側に要求される。

被上告人は、一審において、「所得税法八四条が扶養控除の対象として民法上の親族に限定したのは、大量かつ回帰的に行われる租税の徴収を確実、的確かつ効率的に行う必要性から、一定の法形式を備えたものについてのみこれを扶養控除の対象とするのが、事実認定に困難さの伴う実質判断によるものより、より公平であるとの考え方を前提とするものと解される」と主張している。

形式的判断の方が公平であるといわんばかりだが、これが誤りであることは明らかである。実質判断による徴税をしてなお公平でなければそれは国の責務が不十分に実行されたことによるにすぎない。公平を確保するための手段を見つけるのが行政の為すべきことなのである。

しかし、実際には扶養控除について、実質的に扶養親族にあたるか否かは容易にチェックできることであり、複雑化を求めることにはならない。

第一、二審判決とも税法の基本的考え方にさかのぼった検討をしておらず、これがために判決に影響を及ぼす憲法、法律解釈の誤りを犯している。

二 事実上の関係と現行法体系

事実上の婚姻、事実上の親子という厳然な事実が存する場合は、実態に応じて権利義務関係が拡大されることは必然である。

現に、事実上の婚姻、事実上の親子に対する権利義務関係の拡大はなされてきており、所得税法八四条の扶養控除対象者である「扶養親族」にあたる同法二条一項三四号の「親族」に事実上の子も含まれるという解釈がなされるべきである。

(一) 身分法等の分野における事実上の婚姻、事実上の親子に対する権利義務関係の拡大

1 原判決は、第一審判決を肯定して、「身分法の分野においては、事実上の婚姻を、法律上婚姻に準じて取り扱うこととするのが、現在の裁判例や学説の見解であり、また、これに伴い、事実上の子についても、これを法律上の子(民法上の実子及び養子のほか、法律上の婚姻に係る配偶者の連れ子も含む。以下同じ。)に準じて取り扱うこととするのが、基本的には、現在の裁判例や学説の方向といって差支えないものと解される」と判示している。また、右に付加して以下のように述べている。「そして、現実の生活に直接かかわりをもつ扶養関係については、特にその傾向は強いといえよう。ちなみに、扶養関係において、認知前であっても、生理的父子関係が推認されるような場合には、扶養義務を課した審判例等もみられるところであり、この考えによると、控訴人も少なくとも、実親子関係のあることを争っていない心については、家庭裁判所において、扶養義務を負担させられる可能性のあることは否定することはできない。」

2 父の事実上の子に対する扶養義務

(1) まず、東京家審昭和四四年八月二〇日(家裁月報二二巻五号)は「・・・(二児については)相手方は正式に認知を了していないのであって・・・右二児が相手方の子であることは明白であり、認知をしようとすれば何時でもこれをなしうるのであり、右二児の福祉のためには、・・・右二児の養育に要する費用も考慮すべきである」として、父の子に対する扶養義務を認めている。

また、福岡家審昭和四〇年八月六日(家裁月報一八巻一号)は、認知請求訴訟係属中の事案であるが、父の子に対する扶養義務を認め、養育料を算定している。

そして、東京家審昭和五〇年七月一五日(家裁月報二八巻八号)も内縁の夫の子であると推定され、これを覆すに足りる特段の事情の認められない事案において係属中の認知請求訴訟事件の判決を待たないでも、生理的親子関係が認められる以上、右夫の扶養義務があるとして、子の大学卒業時までの生活費及び学費の二分の一相当額の支払を命じた。

(2) このように父の事実上の子に対する扶養義務を認めているのは、子にとって父との関係が事実上のものであったとしても父に扶養義務が認められなければ、子の生存、養育が成り立たないか若しくは認められる場合に比して確実に生育環境が悪化するからに他ならない。

現在における子そしてひいては子の母親である女性にとってほとんどの場合、父の扶養は、必要不可欠である。そして、このことは、事実上の子であるか法律上の子であるかに関わりがないのである。

(3) ところで家事審判例からすると、本件においても当然に原告の子に対する扶養義務が認められることになる。扶養しなければ、扶養料の負担が命じられるのである。

本件において、原告は、その扶養義務を履行しているのであるから、扶養控除は認められるべきである。一方で扶養義務を課しながら、他方で扶養控除を認めないのは、全く正義に反し、公平に合致しないと言わざるを得ない。

3 事実上の親に対する子の扶養義務

福岡高等裁判所は一九五六年四月一三日に、「内縁の養親は格別の事情のないかぎり法律上の養親と等しく未成年者たる内縁の養子を扶養する義務を負担するのであるが、内縁の未成年の養子において、右の養親を扶養する義務がある。」と判示した。

2で述べた父の事実上の子に対する扶養義務及びここで述べている事実上の親に対する子の扶養義務に共通しているのは身分法の分野において事実上の関係を重視し、そのことを前提に議論せざるを得ないということである。

これは、身分法における法律関係においては具体的にどういう身分関係を形成しているかが重要で、事実関係を無視しては議論をなし得ないこと、とりわけ誰に扶養義務を負担させるかは、事実に則して考慮しない限り、扶養を受ける者にとって全く無意味なものとなることなどによるものと思われる。

4 内縁養子縁組と家裁の許可の要否

福岡高等裁判所は一九五六年四月一三日に、次のように判示している。

「満一五歳以上の未成年者が養親と縁組の予約をなし、・・・事実上の養親と内縁の養親子関係を創設するには、必ずしも家庭裁判所の許可を必要としない。すなわちその許可の有無にかかわりなく、他に右縁組を無効ならしめる実態的要件を欠如しないかぎり、いわゆる内縁の養親子関係を創設しうるのであって、法律の用語に従えば、そこにはすでに縁組の届出をなさざるも事実上養子縁組と同様の事情にある養親子関係(例えば、厚生年金保険法四六条参照)ありというに妨げなく、かかる内縁の養親子は民法第八七七条第一項の規定に準じて相互に扶養の義務があると解するを相当とする。けだし、内縁の養親子関係の当事者は家庭裁判所の許可を得たると否とを問わず、互に相手方に対し縁組の届出を強制できず、かつまた何時にてもこれを解消しうるのであるから、(もっとも不当・違法に内縁関係を破棄した有責の当事者が相手方に対し、有形無形の損害を賠償する義務を負担することのあるのは当然であるけれども、破棄者が未成年者である場合は、その責任及び不当・違法性の認定について慎重な考慮が払われなければならない。)前示のように解しても養子縁組につき未成年者の利益を保護するために設けられた民法第七九八条の規定に抵触し、またはその精神に反するということはない。」

5 事実上の婚姻

(1) 事実婚は、身分法等のレベルにおいて、届出を経た婚姻関係とほぼ同様の法的関係にあるとの取扱いを受けている。

(2) 特に、扶養や扶助においては、法律婚と全く同じ権利義務関係となる。

互いに夫婦として同居・協力・扶助の義務を負い(例えば、最判昭和三年四月一一日)、一方当事者が他方当事者に対して婚費分担請求権、財産分与請求権等を有することは、異論がない。

6 一方当事者の生命侵害と損害賠償

第三者に対する損害賠償請求に関して、事実上の婚姻、事実上の親子関係において、民法七一一条が類進適用されることは、判例・学説の認めるところである。

7 居住の確保・財産の分与等

居住建物の賃借権の承継(借家法七条の二、事実上の養親子のなかに未認知の非摘出子も含まれる)及び特別縁故者としての分与(民法九五八条の三)の制度によって、事実上の婚姻・事実上の親子関係において居住の確保・遺産の分与がなされている。

(二) 社会保障、社会保険などといった行政法の分野における事実上の婚姻、事実上の親子に対する権利義務関係の拡大

1 健康保険法一条二項三号、厚生年金保険法六三条一項三号、児童扶養手当法三条三項等は、事実上の子を法律上の子と同様に取り扱うものとする趣旨の規定を置いており、また、健康保険法一条二項一号、厚生年金保険法三条二項、国民年金法五条四項、児童扶養手当法三条三項、母子及び寡婦福祉法五条一項、労働者災害補償保険法一六条の二第一項、国税徴収法七五条一項一号等は、事実上の婚姻(配偶者)を法律上の婚姻(配偶者)と同様に取り扱うものとする趣旨の規定を置いている。

社会保障、社会保険などの分野は、現実の生活の福祉の充実等を目的とするものであるから、事実上の婚姻、事実上の親子関係に着目し、重視しなければならず、よってこのように様々な代表的な法律において、事実上の婚姻、事実上の親子に対する権利義務関係の拡大をしているのである。

2 そして、判例等は、重婚的内縁関係における内縁の妻が「配偶者」に該当する旨の判示をしている。

このように、判例等は、実態を重視し、法律上の配偶者よりも事実婚にある者を優先しているのである。

東京地方裁判所は一九八八年三月二八日、内縁関係を二〇年間続けた後に死亡した夫に、法律上の妻がいた場合、内縁の妻が、遺族年金を受給できるかどうかが争われた訴訟(昭和五九年(行ウ)第一五三号厚生年金保険遺族年金不支給処分取消請求事件)において、次のような理由などから、被告が原告に対し行った厚生年金保険法による遺族年金を支給しない旨の採決を取り消す旨の判示をした。

「遺族年金が被保険者の遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とする制度であることに鑑みれば、婚姻関係がその実体を失ったものになっているときにおいては、右関係にある者はもはや右『配偶者』には該当せず、重婚的内縁関係にある者をもって、法三条二項にいう『婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者』として法五九条一項に規定する『配偶者』に該当すると解するべきである。」

(三) 所得税法における事実上の人間関係に対する権利義務関係の拡大

所得税法二条一項三四号は、里子及び委託老人も扶養親族としている。

このように、法律上の親族とされていない者についても扶養親族としているのである。

このことは、法律上の関係がなくても里子及び委託老人を事実上扶養している場合は、その事実上の人間関係に則り、所得税法上法的効果を認め、税法上の扶養控除の対象となるようとしたものであり、所得税法における事実上の人間関係に対する権利義務関係の拡大を端的に示すものである。

なお、養子縁組をするまでの間里親には次のような費用が支給される。

〈1〉 養育費月額四万九一五〇円(小学校低学年の場合)

〈2〉 養育手当月額一万四〇〇〇円

〈3〉 医療費、学校給食費などの実費

〈4〉 高校や大学に進学するときは修学金、支度金

つまり、里親は、右のような費用の支給を受け、しかも扶養控除を受けることができる。

これに比して、事実上の親は、里親と同じように子を扶養しながら、扶養控除すら受けられないのである。

(四) 結論

以上のように一般法である民法の解釈において、事実上の婚姻、事実上の親子に対する権利義務関係の拡大はなされており、社会保障、社会保険などといった行政法の分野、そして所得税法においても事実上の婚姻、事実上の親子に対する権利義務関係の拡大はなされているのである。

従って、所得税法八四条の扶養控除対象者である「扶養親族」にあたる同法二条一項三四号の「親族」に事実上の子も含まれるという解釈がなされるべきである。

そのような解釈をしていない原判決の判断は極めて不十分なものであり、憲法、法律の解釈を誤っているものといわなければならない。

(五) 他の社会保障制度との関連

事実上の婚姻関係がある場合は、現在児童扶養手当が支給されていない。また、保育園に支払う保育料は事実上の父の収入も当然に合算されている。

事実上の子を扶養している場合であっても扶養控除は認められないとした原判決の判断は、他の社会保障制度との関連において、著しい不一致を生じ、極めて不公平である。

従って、所得税法八四条の扶養控除対象者である「扶養親族」にあたる同法二条一項三四号の「親族」に事実上の子も含まれるという解釈がなされるべきである。

1 児童扶養手当等との関連

(1) 児童扶養手当、児童育成手当は、事実上の父がいる場合は、支給されない。

(2) まず、児童扶養手当法三条は、

「この法律にいう『結婚』には、結婚の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある場合を含み、『配偶者』には、婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含み、『父』には、母が児童を懐胎した当時婚姻の届出をしていないが、その母と事実上婚姻関係と同様の事情にあった者を含むとする。」

と規定する。

このように、児童扶養手当の支給に関しては、いわゆる「事実婚」の場合も「法律婚」と全く同一の取扱いがなされているのである。

(3) 実際の適用においても事実上の関係は、極めて重視されているのである。

例えば、児童扶養手当及び特別児童扶養手当関係法令上の疑義について出された、一九七二年五月一六日の児企第二八号各都道府県民生主管部(局)長宛厚生省児童家庭企画課長通知は、「1、事実婚の範囲について」次のように述べている。

「児童扶養手当は、母がいわゆる事実婚をしている場合には支給されない。(児童扶養手当法第四条第二項第七号及び第三条第三項)これは、母が事実婚をしている場合には実質上の父が存在し、児童はその者から扶養を受けることができるので、そもそも児童の養育費たる性格をもつ本手当を支給する必要性が存在しないからである。

従来事実婚の解釈については、いわゆる内縁関係にある場合であっても当事者の関係が民法に規定する重婚の禁止(第七三二条)、近親婚の制限(第七三四条)、直系婚姻間の婚姻の禁止(第七三五条)又は養親子間の禁止(第七三六条)のいずれかの規定に抵触する場合には、事実婚には該当しないものとして取扱い、手当を支給してきた。

しかしながら、児童扶養手当の趣旨、目的からみると、かかる場合には、実質上の父が存在し、手当を支給する必要性が存在しないばかりでなく、かかる場合に手当を支給することは、民法も禁止しているように社会一般の倫理感に反し、非倫理的な行動を助長しているとの批判を免れないところである。

例えば近年いわゆる未婚の母の受給者が増加しており、その中には妻子ある男性と同居している事例がかなり見受けられるところであるが、かかる場合には手当を支給する必要は何等存在しないものである。

よって、今回、事実婚の解釈については、当事者間に社会通念上夫婦としての共同生活と認められる事実関係が存在しておれば、それ以外の要素については一切考慮することなく、事実婚が成立しているものとして取り扱うこととした。」

また、右通知は、事実婚は原則として同居していることを要件とするが、別居していてもひんぱんに定期的な訪問があり、かつ、定期的に生計費の補助を受けている場合等の場合には事実婚が成立しているものとして取り扱われたいとも述べている。

さらに、通知は、次のようにさえ述べている。

「(問十九)不認知児童であっても、その父と推定できる者(戸籍上他に妻がいる)が同居している場合、手当の支給ができるか。

また、児童の母は、その男は単なる同居人(間借)であると言い張った場合はどうか。

(答) たとえ同居人と言い張った場合でも、客観的事実関係からみて生計同一の場合には事実結婚の存在が認められるので、法第四条第二項第七号の規定により手当は支給されない。」

(4) 本件においても藤本早苗は、離婚後支給されていた児童扶養手当、児童育成手当も控訴人との「事実婚」を理由に支給されていない。

しかもその決定通知書には「事実上の配偶者に養育されるようになったため」と書かれている。

このように、一方では、「事実婚」を理由に児童扶養手当等を打ち切り、他方では、「事実婚」を理由に事実上の父に対し、扶養控除を認めないのである。

結局、控訴人及び藤本早苗は、二重の経済的負担を強いられているのである。「事実婚であることが、児童扶養手当等と税金において不利益に取り扱われ、しかも全く正反対の解釈から、控訴人及び藤本早苗にとって、経済的に不利益な結論となっているのは、全く奇異であるとしか言いようがない。

2 保育料の算定方法との関連

(1) 保育所保育料は、扶養義務者から徴集することとされており(児童福祉法第五六条)、保育料額の決定は、同一世帯に属する扶養義務者の所得税額を合算した額を徴集基準としている。

(2) 杉並区立の保育園に通園している心の保育料についても世帯別に計算されている。杉並区長は、早苗と原告の所得税額を合算して決定しているのである。

このように早苗の事実上の配偶者である控訴人に法律上の扶養義務があることが前提とされている。

このように、事実上の父も、扶養義務を課せられ、その結果、保育料の負担を強いられているのである。

従って、保育料の算定との関連からすれば、所得税法八四条の扶養控除対象者である「扶養親族」にあたる同法二条一項三四号の「親族」に事実上の子も含まれるという解釈がなされるべきである。

(3) なお、原判決は、保育料の算定方法については、「この取扱いは、法律上の扶養義務者である早苗の費用負担能力を判定するという観点から、早苗と同一生計を営んでいる原告の所得をも考慮したものと解することができ、この取扱いをもって、所得税法上、事実上の子を扶養控除の対象となるものに当たるとする根拠とはなし難い。」とする。

しかし、この解釈の前提事態が事実誤認である。

「早苗の費用負担能力」の判定など全くなされておらず、保育料の算定事態、生計を一とする「世帯」単位で行なわれているのである。

3 生活保護法

(1) 生活保護の支給も事実上の関係に基づいてなされている。

(2) まず、生活保護法四条は、

「保護は生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行なわれる。」

と規定する。

生活に困窮する者は、事実上の婚姻関係、事実上の親子関係などの事実上の親族関係であっても扶養を受けることを要件としているのである。

この趣旨に端的にあらわれているように、生活保護の支給についても事実上の関係に基づいてなされているのである。即ち、要保護者が実際支給を受ける必要性があるか否かが問題なのである。

当該人間が、他の者から援助を受けられるのであれば、その「他の者」と法律関係があるかどうかは問われないのである。

また、同法九条は、

「保護は、要保護者の年齢別、性別、健康状態等その個人又は世帯の実際の必要の相違を考慮して、有効且つ適切に行うものとする。」

とし、同法一〇条も、

「保護は、世帯を単位としてその要否及び程度を定めるものとする。但し、これによりがたいときは、個人を単位として定めることができる。」

とする。

これらの規定も生活保護法が、事実上の関係に則って運用されていることを示している。

(3) 本件において、藤本早苗は、仮に生活保護の申請をしても、事実上の婚姻関係を理由に支給を拒否されるであろうから申請はしていない。

(4) 一方で、事実上関係を重視し、他方で事実上の関係を理由に扶養控除を認めないのは、全く奇異なことである。

原判決は、この点につき、次のように判示するだけである。

「また、控訴人は、東京都知事が控訴人との事実上の婚姻関係を理由として早苗に対する児童手当の支給を止めたのは、控訴人と早苗との事実上の婚姻関係を法律上の婚姻関係と同視するものであるから、扶養控除の対象となる『親族』には事実上の子も含まれるとも主張し、〈証拠略〉によると、東京都知事は、早苗に対し、事実上の父親(控訴人のこと)が存在し、その扶養を受けることができるからとの理由で、昭和五五年一〇月一八日(控訴人と早苗とが同居を開始した日)以降の三人の子(績、要、匠)に対する児童扶養手当の受給資格の喪失の通知をしたことが認められる。しかしながら、右取扱は、事実上の婚姻及び事実上の配偶者を法律上の婚姻及び法律上の配偶者と同一に扱うことを明文をもって規定した児童扶養手当法に基づくものであるから、これをもって、所得税法上、事実上の子を扶養控除の対象となる者に当たるとする根拠とすることはできない。」

このように、両者の不平等な取扱いについては何ら合理的な説明とはなっていない。

従って、原判決は、憲法、法律の解釈を誤っていると言わざるを得ないと考える。

第二憲法・条約の解釈について

上告人は以下、原判決が憲法の右条項、各条約の解釈を誤って判断を為していることを論証する。

一 憲法一三条関係

前記したとおり、納税は個人の尊厳と幸福追求権への制約という側面をもち、各種控除制度は、個人の尊厳と幸福追求権の保障という側面を持っており、税法も憲法一三条の観点からチェックされなければならない。

扶養控除制度の規定が、事実上の親子関係には適用されないと解すると、扶養の実態があるのに、ただ届出をしていないという理由のみで税負担の不公平を強いる結果となる。また、個々人にしてみれば届出をするか否かは個人の尊厳にかかわる重大な選択であり、上告人についても同様のことがいえる。

また、扶養控除制度が事実上の親子であり、扶養している実態があるにもかかわらず適用されないとすれば、扶養者、被扶養者の最低生活費に対して課税を強い、幸福追求権を侵害することとなる。

法が上告人のような生き方を選んだ者を扶養控除制度の適用対象外に置くことは、著しく合理性を欠き個人の尊厳を侵害し、同時に本人と子どもの幸福追求権を侵害することが明らかなのである。

原判決は、憲法一三条との関連についてはふれず、ただ次のように、憲法上の主張に対する判断を第一審判決を援用し、これに付加して次のように示している。

「しかしながら、民法は、親族、実子及び養子について、それに関する規定を置き、法律上の子を事実上の子と区別する態度を維持していること、しかも、事実上の子を法律上の子とするについて、民法上、親の婚姻、子の認知及び養子縁組の届出といった手続が認められ、その手続をするにつきさほどの困難性は認められないこと、身分法の分野における解釈においても、事実上の子を法律上の子に準じて取り扱うものとはしつつ、なお、両者の間に有意な差異の存在が肯認されていること。なるほど法律上の子となるか事実上の子となるかは、親の意思に基づくもので、子の意思とは全くかかわりのない場合が多いのであり、弁論の全趣旨によると本件についてもそうであろうと推認されるが、扶養控除(直接的には親に対するものであるが)の点も含め、両者に対する取扱の差異が生ずるのは親の責めに帰すべきであるから、子に対してはこれをすべて撤廃すべきであるとの主張は、立法論としては格別、それぞれの前記のような取扱の差異も合理的とされる理由があるのであって、現行法の解釈としてはにわかに採用することができない。」

原判決は上告人の主張を立法論として理解を示しているのかもしれないが、事実上の子と届出を経た子との間には取扱の差に合理性があるとする。

しかし、原判決には、扶養控除との関係で具体的な取扱の差が肯認される理由を何ら示していない。扶養控除との関係で、具体的に個人の尊厳幸福追求権という憲法一三条の保障する権利が守られているかがこの訴訟では具体的に問われているのであり、この点の判断をしていない原判決には明らかな違法があるといわなければならない。

右に述べたとおり、所得税法の扶養控除の規定は憲法一三条の趣旨から解釈すれば事実上の子に対しても適用されると解されねばならず、原審はこの点から法律解釈を誤り、これが判決に影響を及ぼすことが明らかである。

また、かりに所得税法が右のような解釈を許さないものとすれば、それは憲法一三条に違反する。原判決はこの点において憲法解釈を誤っており、破棄を免れない。

二 憲法一四条、国際人権規約B規約二六条、女子差別撤廃条約一六条一項(d)違反

(一) 憲法一四条違反

扶養控除制度が、事実上の親子であり、扶養している実態があるにもかかわらず適用されないとすれば、扶養者、被扶養者を「社会的身分」により、差別をしていることになるが、このことは、憲法一四条が禁止する不合理な差別だろうか。

1 まず、扶養控除の目的から考察する。

扶養控除は、納税者に扶養すべき家族がいる場合、その者らの最低生活費・基準生計費ないし標準生計費に対応する部分については、扶養に必要な費用として坦税力を認めず、当該納税者に対する課税の対象外におこうとするものである。

そうであれば、控除すべき生計の状態にあるか、つまり、控除対象とするような扶養親族関係にあるかが、考えられなくてはならず、扶養控除はその生計の実態に即して認められなければならないと言える。

したがって、扶養控除の対象になるかについては、形式的に親族であることか否かにより判断することはできないのである。

以上により、扶養控除の目的からすると不合理な差別を規定している所得税法八四条は違憲である。

2 次に、子どもの権利の観点から論ずる。

同一の所得を得ている親に扶養を受けている子を想定して考えるに事実上の子は、控除を認められる親に扶養されている子に比して、親が扶養控除を受けられないため、控除による減税に伴う経済的利益を受けられないことになる。

子どもが事実上の子であるか法律上の子であるかという養育環境の差異によって、子どもの受ける経済的な理由に著しい差異をもうけることは、その子どもの生存権を侵害し、また、個人の尊厳を傷つけるものである。

従って、子どもの権利の観点からすると、扶養控除の対象となるか否かについては、子どもは平等に取扱われなければならないのである。

以上により、不合理な差別と言え、所得税法八四条は、違憲である。

3 次に、他の社会保障制度特に児童扶養手当の取扱いとの不均衡の観点から「合理性」を考察する。

他の社会保障制度においては、事実上の関係が重視している。

児童扶養手当は、事実上の父がいる場合は、支給されない。

まず、児童扶養手当法三条は、「この法律にいう『婚姻』には、婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある場合を含み、『配偶者』には、婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含み、『父』には、母が児童を懐胎した当時婚姻の届出をしていないが、その母と事実上婚姻関係と同様の事情にあった者を含むものとする。」と規定している。

このように、児童扶養手当の支給に関しては、いわゆる「事実婚」の場合も「法律婚」と全く同一の取扱いがなされているのである。

実際の適用においても事実上の関係は極めて重視されている。

本件においても、藤本早苗は、離婚後支給されていた児童扶養手当を控訴人との「事実婚」を理由に打ち切られている。

しかもその決定通知書には、「事実上の配偶者に養育されるようになったため」と書かれている。

このように、控訴人らは、一方では「事実婚」を理由に児童扶養手当を打ち切られ、他方では、「事実婚」を理由に、扶養控除を認められないのである。

このように、「事実婚」であることが児童扶養手当の支給と税金において不利益に取り扱われ、しかも全く正反対の解釈から、控訴人及び藤本早苗にとって、経済的に不利益な結論になっているのである。

このことは、極めて不均衡であり、全く合理性がない。

以上により、不合理な差別を規定している所得税法八四条は、違憲であると断ぜざるを得ない。

4 また、届出をしているか否かという形式上の差異を除いては、「親族」も事実上の親族も、また法律上の父も事実上の父も現実に行なっていることは、全く同じことである。

従って、届出をしていない事実上の親族を排除する理由に合理性が全くない。

5 結局、以上のいずれの観点からしても、事実上の親族につき扶養控除を認めないことは、不合理な差別にあたる。

所得税法八四条は、憲法一四条に明確に反する。

原判決は、これを合憲としており、したがって、解釈に誤りがある。

(二) 国際人権規約B規約二六条

国際人権規約B規約二六条は、法の前の平等を規定し、「出生」による差別に対しては「平等のかつ効果的な保護をすべての者に保障する。」と規定している。

このように単に平等ということだけでなく「効果的な保護」が要請されているのである。

事実上の子を法律上の子と差別をすることは本人が責任をとることのできない「出生」について不利益を課すもので、明らかに国際人権規約B規約二六条に反する。このことを看過している原判決は、解釈を誤っている。

また、原判決は、上告人の「法の下の平等」に反する旨の主張に対し、次のように判示している。「控訴人は、非嫡出子の差別についても主張するが、扶養控除自体は法律上の親子関係の有無の問題であって、嫡出と非嫡出とでその扱いに差をもうけてはいけない。」

確かに、非嫡出子差別の問題と法律上の親子関係の有無の問題とは別個の問題である。

しかし、いずれも子ども自身の責任のとれない子どもの「出生」時の状況、法律上の地位によって子どもを差別すべきではないということでは、全く同一のものである。

高橋敏氏は、「非嫡出子の相続上の地位」という論文のなかで次のように述べている。このことは、事実上の子の場合にもまさにあてはまるのである。「婚外子とは法律上の関係にない男女間から生まれた子である。一夫一婦制・婚姻の神聖性が強調されるようになってから、法律上または社会的に婚外子が婚内子と区別され冷遇・虐待の歴史が始まる。婚姻によらない婚姻外の男女の性的結合関係が罪悪視されることから『罪ある性的結合の果実としての婚外子』もまた罪ある存在とする思想の反映であった。

しかし近代に入り人権尊重の思想は婚外子の人権にも目を向けさせ『いかに正統婚姻・嫡正家族が尊重される必要があるとしても、その不適法行為の責任はかかる行為をなした男女両当事者自身のみ存するのであって、そこから生まれた子には何らの責任もない』との倫理観が定着する。

そのため婚外子の法的地位は二〇世紀半ばになって徐々に改善が図られ、特に一九六〇年代から一九七〇年代にかけて各国の婚外子立法は婚内子と同等な相続権を附与する方向に、更には婚外子・婚内子の区別の撤廃の方向に脱皮してきている。」

このことを全く看過している原判決は、明らかに解釈を誤っている。

(三) 女子差別撤廃条約一六条(d)違反

扶養控除制度の規定が、事実上の親子関係には適用されないと解すると、結婚をしていない女性は、経済的な面で困窮することになりかねない。

そこで、女性に対する差別を撤廃しようという女子差別撤廃条約は、むしろ婚姻をしていない男女間においてこそ男性が女性と対等に扶養義務等を負うことを定める必要があり、一六条一項(d)を規定したと解される。

所得税法八四条が、事実上の父に扶養義務を認めないものであるとすれば、明らかに女子差別撤廃条約一六条一項(d)に違反する。

このことを看過している原判決は、解釈を誤っている。

三 憲法二四条関係

(一) 婚姻及び家族に関する自由並びに平等の侵害

被上告人杉並税務署は、所得税法八四条、二条一項三四号の「扶養親族」の解釈にあたり、「扶養親族」中の「親族」については、民法七二五条の「親族」を示すのであって、この「親族」関係は、民法七三九条によるところの「婚姻の届出」をすること、また、あるいは、同法七九九条による「養子縁組の届出」、同法七八一条による「認知の届出」をすることによって、はじめて発生すること。したがって、いわゆる「婚姻の届出をしていない事実上の婚姻」関係、「事実上の親子」関係においては、同法七二五条の「親族」関係が生じない。ゆえに、所得税法八四条の扶養控除適用対象者であるためには、「婚姻の届出」あるいは「養子縁組の届出」、「認知の届出」を行う必要があるとして、所得税法は、所得税法上の「扶養親族」から「事実上の配偶者」、「事実上の子」を排除しているものと解釈し、係る処分の正当性を主張している。

しかし、このような被上告人の主張は、租税という経済的原理に、「家」的共同体色の濃い民法七二五条の「親族」という異質な概念を導入し、扶養控除という租税法上の効果(応能分担、逆進性の緩和、税の公平な分担など)を損うことになる。

特に、「扶養親族」の範囲を「婚姻の届出」、「縁組の届出」、「認知の届出」をしたものに限るとしていることは、婚姻及び家族に対する税務行政上による介入であると共に、これらの「届出」することと「親族」関係の成立を結びつけることは、旧来の「家」制度に固執した税務当局による政治的イデオロギー操作の表れだと言える。そして、このような税務当局者の解釈は、結果として納税者に特定の「家族像」「家庭像」を押し付けるものになっていると上告人は感じている。

憲法二四条によれば「婚姻」は、両性の合意のみに基づいて成立とある通り、婚姻は両性の意志の問題であり、婚姻をしたということを特定の第三者に報告を義務付けられているものでもないし、ましてや第三者に婚姻することを許可されたり、されなかったりするものでもない。したがって、当然、第三者が「両性が合意している婚姻」について、「認める」とか「認めない」などと判定できるものではない。

また、「養子縁組」、「認知」することについて、あるいは、それらの「届出」をするかどうかは、すぐれて当事者間における問題であり、そこに「児童福祉法」違反や人権侵害が認められなければ、第三者の介入できるところではない。

そして、租税法による実質主義、扶養法における実質主義を併せて考えれば、所得税法八四条扶養控除適用にあたって、「婚姻の届出」や「養子縁組の届出」、「認知の届出」をしている者としていない者を区別することによって、扶養控除適用の有無を判断し、これら「届出」をしていない納税者に「扶養控除」を適用しないことは、法の下に平等原則からはずれる。

(二) 所得税法八四条並びに二条一項三四号の「扶養親族」の解釈にあたり、「扶養親族」に事実上の親子を含めるとする解釈の正当性

1 事実(実質)主義の合理性

上告人は、「婚姻の届出」、「養子縁組の届出」、「認知の届出」、それぞれの届出の有無によって、所得税法八四条扶養控除の適用の有無が決定されることの不合理さについて、一審、二審の弁論を通じて明らかにしてきた。

とりわけ、民法分野において、講学上、判例上、扶養関係については、親子関係などは、形式的関係だけにとらわれずに、実質や実態も重視していくという実質主義がとられており、今や人権を重視した法の解釈・運用が促されていることを明らかにしてきた。

そのほか、社会保障立法をはじめとし、諸立法においても、ことごとく婚姻関係、親子関係について、形式主義にとらわれずに、実質的関係を重視した施策がとられていることも指摘してきた。

実質を重視した傾向は、原判決においても一審判決を受けながら、「事実上の婚姻」及び「事実上の親子」について「3.身分法の分野においては、事実上の婚姻を法律上の婚姻に準じて取扱うこととするのが現在の裁判例や学説の見解であり、また、これに伴い、事実上の子についても、これを法律上の子(民法上の実子及び養子のほか、法律上の婚姻に係る配偶者の連れ子も含む。以下同じ)に準じて取扱うこととするのが、基本的には、現在の判例や学説の方向といって差支えないものと解される」「そして、現実の生活に直接かかわりをもつ扶養関係については、特に、その傾向が強いと言えよう。ちなみに、扶養関係において、認知前であっても、生理的父子関係が推認されるような場合には、扶養義務を課した審判例等もみられるところであり、この考え方によると控訴人も少なくとも実親子であることを争っていない心については、家庭裁判所において扶養義務を負担させられる可能性のあることは否定することができない」と判示しており、扶養義務を通じて、形式主義にとらわれずに、「事実上の親子」関係を「法律上の親子」に準ずるものとして認めているところである。

そして、付け加えて扶養義務について言うならば、民法八七七条は、扶養義務者として第一に直系血族および兄弟姉妹を掲げており、次に特別な事情があるときは、三親等内の親族間に扶養義務が生じるとしている。しかし、審判例にみられるように、扶養義務は、「事実上の配偶者」や「事実上の親子」間にも課せられている事実をみるならば、民法八七七条にいう「直系血族」や「三親等内親族」と同じように「事実上の配偶者」や「事実上の親子」の関係は、扱われていることがわかる。

こうしてみると、婚姻や親子関係については、単に「親族」という形式的かつ抽象的概念にとらわれずに、実質的内容を重視したうえで、当該の婚姻、親子関係が評価され、法的効力が発せられていることがわかる。そして、このように「事実上の婚姻」や「事実上の親子」が、それに係る法的届出の有無にかかわらず、権利・義務関係が肯認されていることは、憲法二四条の規定する両性の意志、家族個々人の尊厳を率直に反映したものと考えられる。

2 「婚姻の成立」について

憲法二四条は、一項において「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されなければならない」としている。

憲法二四条の規定は、現行憲法制定にあたり、明治憲法のもとで「家」を中心にした家族制度の観念を払拭し、いわゆる「家」制度を否定し、かつ廃止するという目的がこめられている。そして同条一項並びに二項の規定は、廃止すべく「家」制度にかわって、家族の一員それぞれを独立した個人としてみなし、個人の尊厳と平等を基調とした民主的共同体としての家族の形成を目指したものである。このことは、憲法一三条に規定する生命、自由及び幸福追及の権利を婚姻という人間社会の最も基本的な行為の中に確認したものであると言える。

「婚姻の成立」について言えば、婚姻は憲法二四条に「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」するとされており、すなわち、婚姻しようとする者の間の意志の合致にのみ基づいて成立する。また、婚姻の維持にあたっては「夫婦同等の権利」の共有、「相互の協力」の義務を規定している。

したがって、婚姻にあたっては、婚姻する当事者(両性)の意志を無視したり、当事者を超えて他者が婚姻について強制、強要したりして、婚姻を妨げることがあってはならないという意味で、婚姻は自由な行為であり、第三者の介入を許すものではない。これを、また、言いかえれば、「婚姻の成立」は両性の合意の他に、第三者に承認を得たり、第三者に報告や届出をすべき義務を求められるところではない。

また、同様に、婚姻生活を維持していくにあたっても、婚姻を維持していこうとする両性の意志の他に、婚姻生活について、外部からの干渉や操作を受けるものではない。特に、両性が合意して成立した婚姻について、その生活形態や生活の仕方によって、他者はもとより、国家及び行政機関から不平等な扱いを受けたり、法的諸権利の剥奪や制限を受けたりして、差別待遇をされるところではない。

この点で、「婚姻の届出」をしなくても、婚姻の当事者である両性が「婚姻した」あるいは、「婚姻している」という意志が明らかになっていれば、婚姻は成立しているものと認められるべきである。

したがって、「婚姻の届出」をしていない婚姻によって形成した家族についても、「婚姻の届出」をして形成された家族と同様で、その当該家族のそれぞれの一員は、個人としても、また家族の一員としても独立した個人であるから諸々の法的諸権利は享有していると考えられるし、法的諸権利を制限されるべきものではない。すなわち、上告人が、扶養控除を受けるために申告した被扶養者藤本心、藤本要、藤本匠の三人の子については、所得税法八四条、同法二条一項三四号の「扶養親族」に含め扶養控除適用対象者として認められる。

3 「婚姻及び家族に関するその他の事項」と法の制定について

憲法二四条は、二項において「配偶者の選択、財産権、相続、住居の制定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」としている。

この規定は、憲法一三条の個人の尊重の原理と憲法一四条の平等原則とを家族生活の諸関係に対してとくに確認したものと言える。この確認の意義は、旧来の「家」制度の基盤が、家族に置かれていたことによって、家族の一員としての個人の存在が、「家」を名目に抑圧されていたことの反省に立って、今後、そうした傾向を払拭するためであった。すなわち、旧来の家族形態は、戸主を中心にした男尊女卑の思想の下に、その家族が形成され、「家」のためにという名分によって、いわゆる「家」が個人の存在や権利を吸収してしまっていたために、婚姻する者たちや家族の一員としての個人に多くの不幸を生みだした。現行憲法二四条は、このような不幸を今後防止するために、婚姻および家族に関する諸立法の制定にあたっては、個人の尊厳や平等の原則に基づいて、男女間及び家族員間相互における個人の尊重と平等の実現に向けて特段の配慮が必要であることを規定していると言える。

A 個人の尊厳について―憲法一三条との関連―

憲法一三条の個人の尊重は、個人主義の原理として、個人が個人そのものとして価値あるものとされ、しかも個人は、人間社会における価値の根源とされて位置付けされている。これは、歴史上身分制によって編制された共同体から、諸個人を解放することによって、人一般の権利として人権の観念を成立させたと言われている。すなわち、個人主義の原理は、個人を超えて価値を持つ「全体」のための称して、個人を犠牲にする全体主義を否定し、すべての個人が、個人としてひとしく尊重されるべきことを要求している。

そして、個人が個人そのものとして価値がある存在であるには、その個人の生命、自由及び幸福追求に対する権利が保障されなくては、意味をなすところではない。したがって、憲法二四条二項は、法律が、家族の一員たる個人の「生命、自由及び幸福追及に対する権利」を妨げるようなことがあってはならないと規定していると言える。

(民法七三九条「婚姻の効力」について)

〈1〉 民法七五〇条「夫婦同氏の原則」

民法七三九条一項は「婚姻は戸籍法の定めるところによりこれを届け出ることによって、その効力を生ずる」としている。

ところで、本件訴訟での争点の一つに「婚姻の届出」等についての問題がある。上告人と藤本早苗が「婚姻の届出」をしない理由に民法の『婚姻の効力』七五〇条「夫婦同氏の原則」がある。上告人と藤本早苗は一審及び二審で主張したように、婚姻するにあたって、上告人の「氏」と藤本早苗の「氏」並びに子どもたちの「氏」、それぞれの「氏」について、婚姻をすることに理由にせよ、上告人と藤本早苗並びに子どもたちのそれぞれの「氏」を統一することは、生活上諸々の困難と不合理が発生することが予見された。また、「氏の統一」は、両者(両性)の個々のこれまでの生活史上、多大に精神的苦痛を伴うものであった。そこで、上告人と藤本早苗は、子どもたちの幸福も考え併せた上で、「同氏」にしないということを意志決定した。

そうなると、「婚姻の届出」をした場合、民法では、「婚姻の効力」の発生によって「夫婦同氏」にすることになり、上告人と藤本早苗のどちらかの「氏」を選択し、「同氏」を名乗らなければならなくなってしまう。これでは、上告人と藤本早苗が婚姻するにあたり合意した「氏を統一しない」という意志決定と「婚姻の届出」が対立状態になってしまうのである。

このことは、民法七三九条「婚姻の届出」と同法七五〇条「夫婦同氏の原則」が、婚姻についての両性の合意の妨げになっていることを意味している。

したがって、民法七五〇条「夫婦同氏の原則」は、憲法二四条一項にある「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」するという規定に違反するし、また、夫婦が「同氏」にするか、しないかという婚姻状態の自由な選択を侵害し、婚姻の自主独立に対する国家の介入と言わねばならない。また、民法七五〇条の効力発生を前提としている同法七三九条についても同様に憲法二四条の主旨に反すると言える。

〈2〉 民法七二五条「親族」

民法は同法七三九条の「効力」に同法七二五条の「親族」の発生を規定している。

しかし、憲法一三条、並びに二四条は、個人の独立した存在を前提に規定している。したがって、個人が他者とどのような人間関係を結ぶかについては、個人の自由によるところである。

これを「婚姻の届出」を届出ることによって、民法七二五条にいう「親族」関係が法律上自動的に発生するようにしているのは、他者との関係をどのように結ぶかという自由に対する侵害であり、法律上一方的に「親族」関係を結ばせるのは、個人の尊厳を著しく侵害する。

ちなみに、民法七二五条は、過去法制審議会において削除の仮決定がなされているところである。

以上の〈1〉、〈2〉の点から、民法七三九条「婚姻の届出」は婚姻の自由の妨げになっており、個人の尊厳を侵しているのであり、こうした事実がある以上、「婚姻の届出」をするか、しないかは、当該結婚者の自由な選択に任せるべきである。この点、被上告人の主張する「婚姻の届出」を前提とした所得税法八四条の扶養控除適用解釈は個人の尊重と婚姻の自由の妨げを是認していると言える。

B 両性の本質的平等について―憲法一四条との関連―

平等の原理は、民主主義の基礎をなすものであり、近代憲法は、自由とならんで平等の保障を不可欠の要素としている。憲法一四条は、平等主義の大原則を言明しているが、これを請けて、憲法二四条は、特に家族関係において平等の原理が徹底すべきことを掲げ、とりわけ、国家が、過去「家」制度イデオロギーによって、家族員を差別したようなことを今後引き起こさせないためにも、家族に関する法律の制定にあたっては、平等の原理が損なわれないよう要求している。

この平等の原理に照らして、所得税法八四条扶養控除の規定を見るならば、扶養控除は居住者と被扶養者の実質的関係に注目して適用されるべきである。同法二条一項三四号の規定にあるとおり、「扶養親族」には、「居住者親族」のほか、「里親子関係」にある者や「老人養護受託」関係にあるなどを含めて、実質上家族を形成しているものを対象としている。

ところが、被上告人は、「扶養親族」のうち、「事実上の親子」関係にあるものは含めないとしている。既に、述べてきたとおり、「婚姻の届出」、「養子縁組の届出」、「認知の届出」等をしていないのは、諸般の事情があったり、婚姻、あるいは家族形成にあたり、個人の意志(考え、思想、信条)があるところであり、その当事者の意志が最大限尊重されるべきところである。

所得税法八四条扶養控除規定が注目すべき点は、被扶養者が賄われている扶養実態としての家族関係(居住者と生計を一にしているという関係)があるかどうかということである。これを被上告人がいうように、「婚姻の届出」、「養子縁組の届出」、「認知の届出」をしているか、いないかという形式的手続に委ねて判断したり、民法七二五条「親族」という抽象的概念によって判断しようとすることは、婚姻、あるいは家族生活の実態を正確に捉えているとは言えない。特に、前述したように、「婚姻の届出」、「養子縁組の届出」については、「氏の統一」の問題や「親族」関係の強要といった問題が含まれており、個人の尊厳や個人の意志が否定されている側面をもっていることを考え併せれば、被上告人の判断基準は、自由な結婚あるいは家族関係に対する介入にあたる。

扶養法の分野では、扶養関係について、形式的側面より実質的側面が重視されているのが実態であり、この考え方にたつならば「婚姻の届出」、「養子縁組の届出」、「認知の届出」をしていなくても、実質的に家族生活がそこにあるか、ないかは判断できるものとしている。

したがって、被上告人のように形式的届出をもってして、扶養控除の適用の有無を判断することは、「事実上婚姻関係にある者」並びに「事実上の親子関係にある者」を家族とは認めないで、一方的に扶養関係にある者同士を扶養控除を受ける権利から除外したものと言える。このような被上告人による行政上の判断は、家族に関する法の下の平等の原理、原則に反する。

右(一)、(二)に述べたとおり、所得税法八四条及び同法二条一項三四号の「扶養親族」は、憲法二四条の趣旨から解釈すれば、「事実上の子」についても「扶養親族」に含めると解さなければならず、したがって、所得税法八四条扶養控除の規定は、「事実上の子」に対しても適用されると解されねばならない。原審は、この点から法律解釈を誤り、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

また、かりに所得税法が右のような解釈を許さないものとすれば、それは憲法二四条に違反する。原判決は、この点において憲法解釈を誤っており、破棄を免れない。

四 憲法二五条関係

(一) 扶養控除制度が、憲法二五条に含まれる自由権的機能に関する問題であることは既に述べた。

憲法二五条は個々の国民の「健康で文化的な最低限度の生活」がおびやかされてはならないと定め、扶養控除制度は子どものいる世帯についての最低生活費からは課税しないことを定めてこれを保障する。

憲法二五条の趣旨から考えて、所得税法上の扶養控除には事実上の子どもも含まれると解さなければならないのである。

そして、現実に扶養している子どもが事実上の配偶者の連れ子または未認知の子どもの場合には適用がないとかりに考えれば、最低生活費の保障を与えないということになり、その限りでその扶養者(納税者)の生存権的自由を侵し、憲法二五条に違反し無効となる。

憲法二五条の生存権的自由の保障は、事実上の扶養関係においても与えられなければならない。

届出をしていないが故に、生存権的自由が保障されなくてもよいとする理由は、憲法上見出しえず、事実上の関係を排除することが著しく不合理であることは明らかである。

(二) 憲法二五条は子どもの生存権保障も定め、児童福祉法がこの権利を具体化して定められた法規であること、そして、扶養控除制度が子どもの生存権保障の制度ともなっていることも既に述べた。

児童福祉法は、憲法の人権保障を、子どもについて全うさせるために定められており、子どもの権利に関して憲法二五条を考える場合、その解釈指針は児童福祉法によらなければならない。

児童福祉法一条二項は、「すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない」と規定し、その生活環境のいかんを問わず生存権的自由が保障されることを定めている。

また、一九五一年に、「憲法の精神に従い、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために」制定された児童憲章も憲法の子どもに対する人権保障の解釈指針を示すものだが、その中の各条項は、「すべての児童は」とされ、その生活環境等一切関わりなく人権が保障されることを定めている。生存権的自由に関しても「すべて児童は、心身ともに健やかに生まれ、育てられ、その生活を保障される」と定められている。

これらの児童福祉法および児童憲章の条項によれば、子どもの生存権的自由の保障を定める扶養控除制度において、事実上の親子関係にあるからといって適用がないとすることは、事実上の親子関係の下にある子どもの生存権的自由を侵害するものであり、違憲となるとの結論が当然導かれる。

子どもの権利の観点からみると、事実上の親子関係か法律形式上の親子関係かどうかで、生存権的自由の保障が与えられるか否かという差異が設けられることに合理性が認められないことは明白であり、所得税法八四条は、著しく不合理であり、憲法二五条に違反する。

原判決はこの点扶養控除制度の憲法二五条の生存権的基本権保障の側面にふれることなく認定判断をしており、所得税法の解釈について誤りを犯し、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるし、所得税法の解釈上の誤りがないとすれば、憲法解釈の誤りを犯しており、いずれにしろ破棄を免れない。

ところで、国連において採択された子どもの権利条約は、今後日本が批准することが求められているが、そのため日本政府は、様々な面で子どもの権利保護のための法整備をなす必要性にせまられている。

この条約によれば、批准した場合には締約国は、その親、法定保護者の人種、政治的その他の意見、社会的出身その他の地位にかかわらず、あらゆる種類の差別なく権利が尊重されなければならないし、締約国はその権利尊重のために必要な措置をとらなければならない。

この条約の批准にあたって、政府が本件扶養控除の条項を改正する必要があることはもちろんである。何故なら、子どもの権利条約によれば、子どもは独立の存在として、差別なく、社会的発達のために十分な生活水準への権利が認められており、扶養控除制度はこれに合致させる必要があるからである。

このような条約の採択は当然憲法解釈にも権利拡張という面が影響を及ぼす。扶養控除における事実上の関係の差別の違憲性はきわめて明確になってきている。

五 国際人権規約A規約一〇条一項、同B規約二三条一項違反

(一) 国際人権規約一〇条一項違反

「家族の形成」及び「扶養児童の養育及び教育」を重視するのであれば、児童にとっての親が、法律上のものであるか事実上のものであるかは、全く問題とならないと思われる。

扶養控除制度の規定が、事実上の親子関係には適用されないと解することは、「できる限り広範な保護及び援助が、」「家族に対し、特に、家族の形成のために並びに扶養児童の養育及び教育について責任を有する間に与えられるべきである。」と規定する国際人権規約一〇条一項に違反する。

このことを看過している原判決は、解釈を誤っている。

(二) 国際人権規約B規約二三条一項違反

親が、子どもを養育し、育てることは、届け出の有無に関わりなく全く同一である。

そして、特に人権という観点からすれば、「家族」を法律婚等の場合に限定する合理性は、全く存しない。

従って、所得税法八四条は、国際人権規約B規約二三条一項に違反する。

このことを十分に考慮していない原判決は、解釈を誤っている。

第三過少申告加算税についての原判決の法律解釈の誤り

一 かりに本件扶養控除が法解釈上認められず、所得税法八四条が憲法に違反しないとしても、本件過少申告加算税の賦課決定処分は違法であり、やはり取り消されるべきであるが、原判決は過少申告加算税についての上告人の主張を斥け、課税除外要件としての正当な理由は本件では認められないとする。

その理由として原判決は事実経過をまとめ、

「控訴人は、昭和五七年申告、昭和五八年申告において、親子関係の届出がないことを前提として、扶養控除を受けられるかどうか被控訴人の係官に相談したところ、肯定の返答であったため、右申告書を提出し、還付金の支払いを受けたこと、しかし、昭和五九年申告については、前年度に控訴人の相談した税理士と、早苗の相談したそれとの見解が異なっていたため、控訴人は改めて被控訴人の管内の税理士の行っている無料相談サービスで相談したところ、事実上の子については扶養控除は受けられない旨の回答を得たこと、そのためさらに国税庁の相談係、被控訴人の係に各二度にわたり相談し、意見を求めたところ、いずれも扶養控除の対象とならないとの回答を得たこと、しかし控訴人はその理由に納得できず、さらに実際に扶養しているのであるからとして、具体的判断を求める趣旨で、昭和五九年申告のうち所得税に関し過少申告をしたことが認められる」という。しかし、原判決はこの経過を認めながら、「してみると、控訴人は、所得税法上の扶養親族の条文、現在の扱い、すなわち事実上の子は扶養親族ではなく、扶養控除は受けられないことを承知していたが、その解釈、扱いに納得できないとして、昭和五九年申告の所得税につき過少申告をしたことが明らかであって、右認定の事実関係のもとにおいては、昭和五七年申告、昭和五八年申告の際とは事情が異なり、昭和五九年申告に関しては、控訴人に、過少申告分について国税通則法六五条所定の「正当な理由」がないと認められる」と判断している。

二 しかし、この認定判断は著しく不当である。

まず、原判決は上告人が「所得税法上の扶養親族の条文、現在の扱い、すなわち事実上の子は扶養親族ではなく、扶養控除は受けられないことを承知していた」とするが、これは全くの誤りである。上告人は扶養控除における事実上の子の扱いについては、その前年および前々年に、適用を受け還付されたことから「扶養控除は受けられる」との認識しかなかった。したがって、現行の扱いを知っていたわけではなく、前の二年と同様に控除が受けられるはずだと考えていた。上告人が「控除は受けられる」との認識に達したのは、前の二年間に於ける税務署の一貫した対応である。

(一) 一九八二年度の申告時(一九八三年三月一四日)、上告人は税務署の確定申告担当官に対し、「心の姓が違うが扶養控除は申告上問題ないでしょうか」と聞いたところ、「実際に扶養しているわけでしょう」と問うたので、「認知等もしていないが実際に扶養している」と答えた。担当官は、「同じ子について扶養控除が重なって出されていなければいいんですよ」と説明し、上告人としてはきわめて合理的な見解として納得し、その控除を付した申告書を提出し、受理された。

その後上告人はいつ還付金の支払が為されるかと税務署に問い合わせをしたが、税務職員は還付について答えただけで、控除されることが当然の扱いとして対応が為されていた。そして当該還付は一九八三年四月一五日に支払が為された。

(二) 一九八三年度分の申告については、還付申告について、多忙のために一九八四年一一月一二日に申告をした。この時も上告人は申告時に受付担当官に前回と同様に事実上の子でも扶養控除が受けられるか質問したが、「問題はない」と言われて申告書もそのまま受付され、同年一二月一四日に扶養控除を認めた還付金の振込が為されている。

原判決はこの一九八二、三年度分の申立から還付に至る経過をひとまとめにして「昭和五七年申告、昭和五八年申告において、親子関係の届出がないことを前提にして、扶養控除を受けられるかどうか被控訴人の係官に相談したところ、肯定の返答であったため、申告書を提出し、還付金の支払を受けた」と認定するのみだが、このように単純なものではない。税務署の一貫した対応は上告人に対し、税務署の取扱いとして定着したものがあることを認識させたのである。行政の取扱いについて市民が認識を持つ場合、その認識の決め手になるのは、行政の現実の運用である。上告人の扶養控除申告は、「事実上の子でも扶養控除は認められる」との明確な説明を受けた上、申告が受理され、控除が認められた申告が正しいものとして還付が為されている。上告人の認識していたのは、事実上の子でも扶養控除が認められるという税務署の取扱いだったのである。しかもこの取扱いは二年続いている。

この認識にたって上告人は、一九八四年度の申告を為しており、現実の取扱いとしては扶養控除は認められるはずと考えていた。

たしかにこの申告前税務署で行っている相談サービス、係員、国税庁の相談係から控除は受けられない旨の説明を受けたが、一九八三年三月、一九八四年一一月に説明のあった控除が認められるとする説明に合理性があったのに比して、理由の説明ができないなどのほか矛盾があり、上告人の認識を変えるには至らないものだった。

とくに税務署から見せられた通達は配偶者控除のみのものだったので、当該事例の説明としてはきわめて不十分なものだった。

したがって、上告人としては現実の取扱いは「事実上の子にも扶養控除は認められる」との明確な認識でいた上、一九八四年度の申告を為した。これによれば上告人には扶養控除が認められるとして申告を為したことに正当な理由が認められることが明らかである。原判決は国税通則法六五条四項の「正当な理由」を限定して解しているようにみられる。

国税通則法六五条過少申告加算税の制度は、確定申告の内容に誤りがあって、それに対する行政上の制裁を課して、確定申告が適正に履行されることを確保する制度である。過少申告加算税は、このように租税法上の義務違反の発生防止の制度である。

ところで、国税通則法六五条四項(昭和五九年改正前は同条二項)によれば、過少申告をしたことにつき、正当な理由がある場合には、当該部分につき、加算税を課さないこととされている。

この法の趣旨は、かりに申告義務者に六五条が予定する義務違反と認められる行為があったとしても、その過少申告をしたことについて、制裁を課すことが不当もしくは酷ならしめる事情あるいは、過少申告行為にやむを得ない事情があると認められるときは、加算税を課さないとするものであり、正当な事由のないことは過少申告加算税の課税要件になっている。

そしてこの正当な理由のないことは、被控訴人の主張、立証責任に属する事項である。

三 この正当事由の存否については次の判例が参考になる。

(一) 無申告加算税(国税通則法六六条)についての正当事由についての判断を示したものとして、贈与税の申告書の期限内提出がなかったことについて、国税通則法六六条一項但書にいう「正当な理由があると認められる場合」に当たるとして、無申告加算税の賦課決定処分が違法とされた事例(東京地判昭和四六年五月一〇日、行裁例集二二巻五号六三八頁・判例時報六四八号五九頁)がある。

(二) また、地方税法七二条の四六の規定による過少申告加算税における正当事由の判断について、広告代理店が地方税法施行令一九条の解釈を誤ったことにつきやむを得ない事由があり、更正の基礎となった事実を事業税の申告にあたりその税額の計算の基礎にしなかったことにつき正当な事由があったと認めるべきであるから、過少申告加算金を課することは許されず、当該過少申告加算税の課税が違法とされた事例(東京地判昭和四五年四月八日・株式会社電通対東京都知事、行裁例集二一巻四号六六九頁)である。

四 右の事例内容を検討してみる。

(一) 右(一)の事例は、次のような内容である。

不動産の贈与を受けた原告が、贈与税がかかるか否かの法解釈について、弁護士と同道の上税務署におもむいた。弁護士は、本件の受贈不動産は親子間で生活費に充てるために贈与されたものであるから、相続税法二一条の三、一項二号所定の非課税財産に該当するものとして贈与税の申告の必要はないとの見解をとっていたので、税に対応した同税務署における贈与税、譲渡所得等の調査担当係官に対しても、右見解を披歴して本件受贈不動産については贈与税を納める必要はないのではないかとの意見を述べた。

これに対する係官の対応の中で、当該財産が非課税財産ともなりうると受けとられるような発言があったなどの事情のもとで、原告は贈与税の申告書を提出しなかった。

裁判所は、本件「事実関係のもとでは、本件不動産が非課税財産であるかどうかの法解釈に関し、原告の側に速断のそしりを免れない点があったにもせよ、原告側から被告(税務署)に宛て提出された書面によれば、被告係官の説明が原告側に十分伝達、了解されていないことが明白であるにもかかわらず、係官が原告らの誤解をとき、申告書の提出を促す等の措置を講ずることなく、納税相談における面接日より三箇月余り経過した後、突如として本件賦課決定処分をなしたことは、贈与税が申告納税制度であるとはいえ、被告側のとった右措置は納税者たる原告側の被告に対する期待を著しく裏切るものと解するほかはない。」

「のみならず、被告の上席調査官自身、原告が本件賦課決定処分のなされる直前であっても本件贈与税の申告書を提出しておれば、なお無申告加算税を課することはしなかったことも十分考えられるとの趣旨の意見を述べていることが認められるところ、このような意見に徴しても、被告および被告所部係官らが、本件贈与税の法定納期限後においても、なお原告らに対し申告書の提出を慫ようするなどの措置を講ずべき余地が十分あったことを窺うことができる」「そして、本来、無申告加算税は、申告納税の実を挙げるため、申告納税を怠ったものに対し制裁として課する附帯税であるところ、本件において原告が贈与税の申告書を法定期限までに提出しなかったことについては、前記認定の経緯のもとでは、これを原告だけの責に帰することは妥当でなく、むしろ徴税者側である被告自身の責に帰すべき事由によることの方がより大であるとみるべきであるから、このような場合には、原告が本件贈与税について所定の期限までに申告書を提出しなかったことについては、国税通則法六六条一項ただし書にいう「正当の理由があると認められる場合」に当ると解するのが相当である。」として、原告に制裁たる附帯課税することはできず、被告のした本件無申告加算税の賦課決定処分は違法といわざるをえない、と断じている。

この事案では税務署員の対応が正当事由を判断する上において考慮されている。このことは、本件事案でも考慮されなければならない。

(二) また、右の(二)の事例は、原告(電通)が本件各処分によって事業税を課せられた収入を除外して、事業税の申告をしたのは、原告の新聞広告取扱額が原告の営む事業のうち「広告を取り次ぐ事業」に係る総売上金額の二分の一を超えているため、地方税法施行令一九条により新聞広告取扱収入分に対しては当然非課税となるものと考えたことにあり、被告(所轄税務署)も、右施行令の解釈に疑義を覚え、原告の右申告の後右施行令の解釈を自治省に照会し、これに対し自治省からは数ヶ月後に回答があり、これに基づいてはじめて本件各処分をしたことが認められたものであり、原告が右施行令の規定の解釈を誤ったにつきやむをえない事由があったと考えられ、処分の基礎となった事実を原告が事業税の申告に当たりその税額の計算の基礎としなかったことにつき正当な事由があったと認めるのが相当であるから、地方税法七二条の四六第一項の規定により、原告に対しては過少申告加算金を課することは許さず、過少申告加算金に関する部分は違法たるを免れないとされた判例である。

すなわち、本件と同様に税法上の解釈につき申告義務者の解釈にやむを得ない事情があったという事案で、裁判所が正当事由を認めているのである。

五 これらの事案において、裁判所が正当事由を認めているのは、これらの納税者に対して加算税を課すことは不当だとするやむを得ない経過が存在すると認められるとされたが故なのである。

すなわち国税通則法六五条四項の正当な事由は限定して解釈する必要はなく、事案ごとにその申告に至った経過を判断しなければならない。

本件で上告人は、一九八二年度、一九八三年度についての加算税は課されていないが、これは税務当局も正当事由を認めたためであろう、その状態下にあって、上告人は確信的に扶養控除は為されるはずだし、為されることが合理的と考えていたのである。

国税通則法六五条四項は税務署と市民(納税者)との関係で、税務署が認めていた取扱いを後で、取扱わないとする場合、なお従前の取扱いが合理的であり、その取扱いが為されると信じ、信じるにつき正当な理由があると認められるときは過少申告加算税を課すことは酷とするのが一つの立法趣旨であり、本件ではまさにこれに該当する。

六 かりに上告人が確信的に控除が為されると認定されない、したがって、それが故に義務違反の制裁を課しても酷とはいえないとしても、本件上告人のように、所得税法の解釈や憲法適合性を争う者が、自らの解釈にしたがって、行政解釈如何によっては認められる内容(本件では扶養控除)の控除を差引くなどの申告を為すことは、解釈を争うという市民の権利行使として認められるものであり、その申告が行政府や司法府の最終的判断と異なったとしても、国税通則法六五条が制裁を課する義務違反は存在しない。むしろこのような権利行使として解釈を争うものに制裁としての加算税を課することになると、申告時において解釈上疑義あるものについての対応を難しくし、市民の権利保障に重大な脅威を与えることになる。

本件上告人の申告はまさに右権利行使として一定の解釈に基づいて為されたもので、したがってかりに更正処分が為され、それが正しいとしても、同法六五条による過少申告加算税の対象とはならず、本件過少申告加算税の賦課決定処分は違法である。

七 原判決は、国税通則法六五条四項の「正当な理由」についての解釈を誤り、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかなので、原判決は破棄されなければならない。

以上

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例